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仁阿弥道八 刷毛目茶碗 [新入荷]

もう1点、道八作品の御紹介になります。

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仁阿弥道八 刷毛目茶碗


道八作品の中でも代表的なもののひとつが、『刷毛目』になります。

元は1400年代~1500年代に朝鮮半島で製作されていた、灰色の素地に白土を刷毛でざっくり回し描きすることで生じる意匠です。

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内側より

道八刷毛目、とも云われ古来より人気の高いシリーズです。

茶碗以外にも、鉢も存在します。

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この勢いの良さ、造形のゆらぎ感が相まって生まれる味わいは、本歌以上とも称されるものです。

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高台脇に、『道八』と書き銘が入っております。

勿論、共箱もございます。

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サイズ 幅14.5~14.6㎝ 高さ6.2㎝


この作行ですが、比較的・・お値頃です。


仁阿弥道八 天明3(1783)~安政2(1855)

京都の陶家高橋家の2世で,最も著名。名は光時,通称は道八,号は法螺山人など。

仁阿弥の号は剃髪して仏門に入った 42歳以降用い,また文化9 (1812) 年に仁和寺宮家より法橋号を賜わった。

主として京都五条坂で製陶し,晩年は伏見桃山でも焼いた。

琳派や狩野派の絵を器体に写した雲錦手 の酒器や茶器のほか,人物や鳥獣魚介などをかたどった置物類も得意とした。

磁器も創製して名声を得,諸藩から多くの用命を受けた。




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お問い合わせ先  

藤井香雲堂

メール:fujii-01@xc4.so-net.ne.jp

直通電話:090-8578-5732

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仁阿弥道八 仁清模茶碗 松ノ画 [新入荷]

続きまして、本日も仁阿弥のお茶碗のご紹介です。

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仁阿弥道八 仁清模茶碗 松ノ画 (1826年~1855年頃)


仁阿弥は、京都の粟田口にありました雲林院宝山家に師事しました。

伝統のある粟田焼の陶家です。ここで得た京焼の技術に、伊勢亀山藩士から粟田焼の陶工へ転身した、父初代道八から学んだ陶法や作風の影響を受け、仁阿弥は活躍の道筋をつけました。

1804年に父を亡くした仁阿弥は、1806年より粟田青蓮院宮への出入りを仰せつかります。

時に19世紀、茶の湯が社会への広い普及により、寺院での大法要茶会・公卿・武家・豪商の交際に必須の教養となっておりました。

それにより、茶道具の需要が高まり、高級な茶道具の”写し”の注文が京都の陶工に入るようになりました。

当時、写しの再現技量は、京都の陶工にとって成功の鍵を握る能力であったといわれます。

仁阿弥もまた、その”写し”の佳品を多数遺しました。

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このお茶碗も、箱書きから"模” = ”写し”としての注文品であることが伺えます。

道八の場合、完コピの場合のみ”模”を書かれるような傾向があります。

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釉薬の具合、この掛け分けの意匠、絵付け・・・野々村仁清の意匠が強く出ております。

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胴締めや轆轤の感じ、仁阿弥の仁清写茶碗らしい形状です。

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軟質なお茶碗ですので、どうしても浸み、は生じます。

茶だまり、の感じも良く点て易い造りです。

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依頼主の意向でしょう、印も”仁清”として造られております。

”仁”の字体は仁阿弥印と共通するところがありますのは当然でしょう。

共箱は仁阿弥印になります。

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昭和七年三月に開催されました、京都美術倶楽部に於ける某家の入札目録に出ております。


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落ち札も作品と共に一緒に伝世しております。


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しっとり、した味わいの色絵茶碗です。

この時代のこういうものは案外探すと無いので、取合せに重宝することでしょう。




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仁阿弥道八 桃山御本 茶碗 鵬雲斎玄室 箱 [新入荷]

まだまだ、幕末期シリーズ続きます。

幕末の京焼3大名工のひとり、仁阿弥道八のさらにレアな作品の御紹介です。

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仁阿弥道八 桃山御本 茶碗  (1842年~1855年頃)

幅13.6㎝ 高さ16.7㎝



和漢の古陶器の写しに優れていたことで知られる、二代目高橋道八、すなわち仁阿弥道八ですが・・・写しのレベルの高さとは別に、モダンデザインを伝統的な意匠と包括させた作行というものが存在します。

2014年12月~2015年3月までサントリー美術館で開催された展観より、少し引用してみましょう。

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この野崎家に伝わる鶴香合や、ボストン美術館に所蔵される雀香合をご覧ください。

野生の動物がまるでロボット?というほどに箆けずりによってシャープに生まれ変わってます。

そして、そのデザインはまるで掛け軸に描かれることのあるような、写実では無いのに写実的な特徴を印象づけるという効果を生み出します。



そのデザインの共通性が感じられるのが今回ご紹介するお茶碗です。

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御本茶碗の意匠をベースにしながら、鶴ではなく桐の紋を外と中に型押ししてます。

その周りにはピンクの斑の発色が華を添えております。



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高台回りの箆削りによる造形は、この意匠としてはシンプルなお茶碗にアクセントをつける事で、じわじわくる味わいを生じさせます。


この作品が珍しいのは、その意匠だけではございません。

天保13年、1842年に仁阿弥道八は家業を三代に譲り、伏見桃山へ隠居することにいたしました。

その地にて、『桃山窯』を築き晩年の自由な作品作りに勤しみます。

このお茶碗はその桃山窯にて造られた作品になります。

印は、『桃山』印が押されております。


外箱には鵬雲斎大宗匠の箱書がございます。

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共箱がございます。箱裏には桃山印の朱印も押印されており、さらに七代道八の極めもございます。

珍しい、高橋道八の受け取り書も現存しております。百匹・・・当時としてはかなりの高値ですね・・・(^^;

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道八は、どうやら当時・・・高値でさばけるルート(もしくは商人)があったようで、あちこちの豪商や名家に作品が多数点在していたことが伺えます。

そのおかげで、名声は広く知れ渡ることになることにもなったようです。




仁阿弥道八 天明3(1783)~安政2(1855)

京都の陶家高橋家の2世で,最も著名。名は光時,通称は道八,号は法螺山人など。

仁阿弥の号は剃髪して仏門に入った 42歳以降用い,また文化9 (1812) 年に仁和寺宮家より法橋号を賜わった。

主として京都五条坂で製陶し,晩年は伏見桃山でも焼いた。

琳派や狩野派の絵を器体に写した雲錦手 の酒器や茶器のほか,人物や鳥獣魚介などをかたどった置物類も得意とした。

磁器も創製して名声を得,諸藩から多くの用命を受けた。


※ご成約済みです。

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佐野長寛 黒髹茶用饌器 倣 盛阿弥作意 五客揃 [新入荷]

ここのところ、同時代の関係者の作品達とのご縁が続いております。

本日は、保全の盟友であり、宗三郎(回全)の実父であります佐野長寛の作品をご紹介致しましょう。


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佐野長寛 黒髹茶用饌器 倣 盛阿弥作意 五客揃



江戸時代の終わり、幕末期の京都に自身を”漆匠”と称する名工が居ました。

「佐野長寛」です。


少し、長くなりますが・・・あまり、文献では目にすることも無いかとも存じますので、ご紹介してみましょう。


寛政6年(1794)漆器問屋 長濱屋治兵衛の次男として新町通三条上ルに生まれ、 治助を通称とし、後に治兵衛を称しました。

幼い頃から父に漆工を学び、早くも13歳の時には 日本一の漆工になる、と父に語ったそうです。

詩歌を学び、儒者・数奇者にも教えを乞いました。そのことはセンスを磨き、精神性等の鍛練に役立てるためであったようです。

父のみでなく、さらに京都市中の漆工にも学ぶために訪ねて回り、特に中村宗哲に多いに教えを乞うたそうです。


二十一才の時に父を亡くし、家督を継ぐことになった長寛ですが、翌年より日本諸国に学びの旅に出ます。

まずは紀州・吉野・奈良など畿内を訪ね、 さらに諸国の漆器産地を歴訪し、最後に江戸に至りました。 その道中には大名や豪商の所持する名品の数々を見せてもらって眼の鍛練にも励みます。

 文政5年(1822)、帰京して自身の作品製作を始めました。

意匠と技術へのこだわりは高く、富裕層の間で作品の評判は高まり、注文が殺到したそうです。

注文主の雅味に応じてとことん追求して製作し、また自身の意にそぐわない注文にはいくらお金を積んでも応じなかったとも言われます。

その反面、断髪して髭や髪を剃らず、粗末な着物を纏って一向に気にしなかったと伝えられます。


高麗の名工「張寛」の再来とも云われ、実際にも5代の末葉でもあったことから、少し字を変えて 「長寛」と号します。


まだまだ、長くなりそうなので、この辺で作品紹介に戻ります。(^^;

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共箱です。

この、盛阿弥というのは桃山時代から江戸初期に活躍した、利休の塗師であり、豊臣秀吉から”天下一”の称号を授けられた方です。

この作品は利休好を写しておりますが、利休好はサイズも後年変化し大と小があります。

最初期である盛阿弥の意匠を写したということです。

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黒髹 というのは黒の漆塗り、の意味になります。

近年では、「四つ椀」は入れ子になる飯椀と汁椀の蓋と身を併せて四つ、から四つ椀と言われることが多いですが、元はこの作品のように四種の蓋物の揃いのことを指します。

飯椀 (口径13.9㎝)

汁椀 (口径13.5㎝)

平椀 (口径13.2㎝)

壷椀 (口径11.4㎝)


5客づつになります。

未使用といっても過言ではないほど、状態が良く現存しております。

1mm程の微小ホツレを2カ所、色押さえしてますが、それ以外は驚くほどのコンディションです。


ここで、長寛の有名なエピソードもご紹介してみましょう。


懇意にしていた豪商、前川五郎左衛門の注文を受けた吸物椀を持参したときのことです。

先客が居た為、次室に控えていた長寛は、五郎左衛門との話の中で長寛が居る事を知らないその先客が、 「長寛という人は呑んだくれで、箸にも棒にもかからぬ所業が多く、 世間では名工と言うが、そうでもないのではないか」と言い出しました。

それを聞いた長寛は静かに立ち上がり、 その家の台所で大きな鉄釜に湯を沸かします。

湯が煮えたぎると、五郎左衛門と先客を呼び、その前で納品すべく持参した椀を放り込み、 薪切れでかき混ぜ煮込みました。

そして、自身の名を明かし、” 拙い技ながら我が椀はよく熱湯にも耐えることを特長としていると言い、 もし持って帰ってもらって明日になって毛筋ほどの亀裂でもあれば、 この職を止め、二度と長寛とも称すまじ”と気色ばんで言いました。 すると客も恥じて謝ったそうです。


えらいことをするものです。(^^;

そんな高温で煮たら、割れはせずとも歪むなり、変色するなりしそうなものですが。。。


まだ、別の逸話があります。こちらはさらに有名なお話です。

天保6年(1935)、茶道具商今津屋の祝い事に長寛は源氏絵の吸物椀を20客製作して贈りました。

喜んだ今津屋が、祝の客の前にこの吸物椀を早速お出しすることにしたのですが、どのお客さんのお椀も蓋が一向に開けられません。

翌朝、今津屋に呼ばれた長寛は、「いや、これはうかつな事をしてしまったわい。わしも老いたかなあ」と大いに笑って、蓋に錐で小さな穴をあけて、空気を通して蓋を開けることにしました。

ところが、一夜もたった中の吸物はまだ温たかかったそうです。

その位、蓋と身がぴっちり合うように作りこんでしまったと。

その後、開けた穴を埋めて再び収めましたが・・・

嘉永6年(1853)今津屋にてこの作品の外箱の裏に和歌を添えたそうです。


「我が老の拙さ業も、後の世にまた顕はるる時やあらなん」
 
老いた自分の拙い作品も、いずれ後世、また見直されることがあるやもしれないと。


余談ですが、長寛は大徳寺の大綱の下で禅を学んでおります。


そして、実際に後年にこんなことも起こります。

明治19年(1886)9月、 この吸物椀が京都の市場に出ました。

不景気の中、最高入札価格は210円にもなり、次点である200円の入れ札が3業者居たそうです。
ところが、この3人がどうしても、と食い下がり。。その内の1人が相応の利付けして代わってもらうことになり、結局300円の値になったそうです。

この逸話は当時の新聞に載るほど有名になりました。


えらい話ですね。(^^;


かなり、回り道をしましたが・・・

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この作品にもその片鱗がみえます。

なんともいえない重量感と、造り、しっとりした漆の肌さわりに、蓋と身を合わせたときの上品さ、はさすが、長寛でしょう。


佐野長寛は、安政3年(1856)3月2日に没し、釈休専と諡されました。

その跡は子の秀太郎が継ぎましたが、翌々年36歳の若さで没し、絶家したと伝えられます。


大正14年(1925)2月24日、京都の名だたる道具商と漆器商その他が結集し、長寛七十年祭が行われました。

京都の浄宗寺で法要を営み、 4月3日の9時からは妙法院で祭典が行われ、小書院では茶莚が、 御座間では点心が振舞われました。 また豊国神社、豊秀舎には4茶席が設けられました。
 
恩賜京都博物館(現在の京都国立博物館)では、北側の庭園で 京都漆工会の主催の茶席が設けられて茶がふるまわれ、 作品は4月3日~7日まで博物館内に展示されました。
 

佐野長寛作品 所蔵の美術館・博物館

・京都国立博物館
(龍鳳凰漆絵蒔絵食籠)

・三井記念美術館
(鉄錆写提銚子)

・野村美術館
(龍蒔絵桃形菓子器・散桜柴蒔絵食籠・城端写菓子盆・ 紅葉漆絵吸物椀・正法寺漆絵蓋物・伊勢物 語吸物椀)

・湯木美術館
(絵萬暦食籠・片輪車蒔絵菜盛椀)

・滴翠美術館
(蔦蒔絵棗)

・逸翁美術館
(八角食籠・正法寺蒔絵菓子器)

・MIHO MUSEUM
(蒟醤写八角食籠)

・耕三寺博物館
(砂張写青海盆)



御精読有難うございます。 大変長くなりました・・・1時間半かかってしまいました。(+_+)


※ご成約済み

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眞葛長造 古染付写 銀杏香合 [新入荷]

先日の保全の蔵六亀香合もそうでしたが、もう1点・・・逸品の香合をご紹介致します。

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眞葛長造 古染付写 銀杏香合


長造は、仁清の再来ともいわれ幕末に活躍した名工であります。

保全・仁阿弥・長造は幕末の京焼3傑とも言って過言ではありません。

3者とも様々な作品を生み出しておりますが・・・敢えて、一言で表すと。

『繊細丁寧な保全』、『ざっくりと味わいの仁阿弥』、『モダンな優美さの長造』

とでも言いましょうか。

長造はほぼ茶陶のみの作品で、さらに京都に戻ってからの活躍期間が意外と長くないのと、おそらくは工房的ではなく自身を中心としてほぼ1人での製作に近かった為、作品数は多くありません。

その中で香合だけ数があるようにみえますが、かなりの確率で贋作が多く世に出回っております。


今回ご紹介する呉須銀杏香合は型物香合で西方前頭 2段目3位にあります。

明時代末に日本からの注文によって中国南部にて製作されました。

他にも染付銀杏香合といって明るめの色調で山水や蜘蛛の巣を描いたものも有名で、こちらも西方2段目19位にあります。

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この香合や木瓜香合などの特徴として、蓋と身の側面の高さがほぼ同じということがフォルムとして他の香合との大きな違いです。

そのことにより、側面への意匠の書き込みがしっかりでき、趣きが深まります。

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銀杏というのは、あくまで形状デザインのモチーフで、銀杏の時期に使う為という意味の意匠ではありません。その為、絵柄は竹になっております。

小堀遠州による洒脱なデザインと言われております。

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当時は京焼でも呉須の取り扱いが一定のレベルに達しており、五条坂近辺の陶工において染付作品が多数生み出されております。

長造作品の中では染付作品は少ないのですが、この発色と絵付けの見事さは本歌以上の素晴らしさがあるかもしれません。

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蓋裏に書き銘がございます。 拝見でもご覧いただけますね。

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古染付写し となっております。

実際には呉須写し、となるのですがその辺は今と違って曖昧だったのでしょう。

畠山記念館に所蔵されているものに近い意匠です。

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私はこの、大丸印、に入れ込みました。(^^;

このタイプの印は非常に珍しいのです。しかも香合という小さいアイテムに押されることは他に類例を見受けられません。

かなりの自信作であったことが伺えます。

長造は京都数奇者様方や、茶道具商の間では古来より人気でありましたが、その稀少性や資料の少なさから、名前だけは知られるものの、美術の世界ではややマイナーな存在でした。

平成12年に京都の茶道資料館に「茶の湯の京焼 ~眞葛長造~」が開催されたのが初の展観でありました。
(以外にも仁阿弥道八も数年前のサントリー美術館が初でした)

その後、今年の岡山県立博物館と、京都茶道資料館にて開催されました「むしあげ」展で香山のルーツとして長造の逸品群をきちんと紹介されたのも記憶に新しいところです。

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長造の晩年に近い作品になります。


眞葛長造

1797(寛政9年)~1860(万延元年)

若くして青木木米の弟子として作陶生活に入る。後、眞葛ヶ原に開窯。
(木米は潁川の弟子ですが、他にも長造の父・長兵衛にも師事しておりました。)

卓越した製作技術を持ち、独特の成形センスと、藁灰釉を筆頭にした上品で味わいのある釉薬を自在に操り、仁清の意を本歌以上に雅味のある作品を生み出した。

明治期、世界に名を轟かせた宮川香山(眞葛香山)は長造の子である。


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永楽和全 桜井の水 茶碗 武者小路実岳詠歌写 [新入荷]

続きました、永楽シリーズもこれで最後になります。

この作品は7年前にも同手を当店で取り扱いました。ひさびさの入荷になります。

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永楽和全 桜井の水 茶碗 武者小路実岳詠歌写


和全は晩年、了全以来の居宅があった油小路一条の地を売却し、京都東山の下河原鷲尾町、さらに建仁寺塔頭、正伝院へ居を移し『菊谷窯』を開きました。

明治十五年(1882年)のことです。


菊谷手の作風に、詠み歌を配置しております。

それは前時代の歌人の歌です。

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加気阿可亭 (掛け飽かで)

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具みし堂可世の (汲みし常世の)

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春与利可 (春よりか)

花濃名に寿む (花の名に住む)


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沙くら井の水 (桜井の水)



武者小路実岳 (むしゃのこうじさねおか)の詠み歌です。

実岳は1721年~1760年に生きた公卿であり歌人です。

享保6年10月20日生まれ、武者小路実陰の孫。武者小路公野の子。

左近衛(さこんえの)中将となり、宝暦5年従三位にすすむ。二条派宮廷歌人で、門下から伴蒿蹊(ばんこうけい)や澄月(ちょうげつ)がでた。

宝暦10年8月12日死去。


名は”さねたけ”ともよむ。


桜井の水、とは宝ヶ池近くにある、湧き水の名所です。古くは清少納言の枕草子にも登場します。

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見込み、には桜のつぼみがあしらわれており、抹茶を飲み終わった時に姿を現します。

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共箱

明治21年の作であることがうかがえます。 菊谷焼とは明記されておりませんが、時代、土、釉薬、作風共に合致します。

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サイズ 幅11㎝ 高さ7㎝


粗い胎土にざっくりとした絵付けのものが多く、ある種民藝的もあり・・・・京焼の伝統で様々な

技法・作品をありのままにこなしてきた和全の境地ともいえます。
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永楽保全 蔵六亀香合 白檀地 長寛塗 大綱和尚箱 [新入荷]

今回も、昨日からの流れでのご紹介になります。

こちらも珍しい作品です。

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永楽保全 蔵六亀香合 白檀地 長寛塗 大綱和尚箱

永樂保全さんは、幼名は千太郎といい、一説に京都の織屋・沢井家出身といわれます。

幼少から陶器の釉薬を商う百足屋へ奉公し、大徳寺黄梅院住職大綱和尚のもとで修業致しました。

その後1806年頃、大綱和尚の紹介で永樂了全の養子となります。

1817年に11代を襲名。1827年には紀州藩十代藩主徳川治寶の西浜御殿の御庭焼開窯に招聘され、作品を賞して「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印と「永樂」の銀印を拝領することにより、それから永楽を名乗るようになりました。

さて、大亀香合は本歌は17世紀(明~清時代)に交趾焼で生まれたものです。

元は合子であったものを香合として見立てたともいわれます。

その造形や色彩(本歌は黄色や緑の交趾)から人気があり、さらに希少さも際立っていることから、型物香合では最上位の東の大関として番付されておりました。

生島家伝来品、雲州家伝来品が色絵として著名で、惣萌黄のものも根津美術館蔵ほか数点知られています。

エピソードとして有名なのは、藤田男爵が入手したお話です。

高橋掃庵氏の文献より引用してご紹介いたしましょう。



明治四十五(1912)年の三月末、大阪で行われた、生島家蔵器入札のときのことである。

出品されたものの中に、交趾焼の大亀香合があった。

この香合は、名物香合番付で、昔から大関(注・横綱はなく大関が最高位)の位置を占めているもので、松平直亮伯爵所蔵の、不昧公遺愛の同香合と、天下の双璧として知られているものである。

それに先立つこと、藤田男爵は、道具好きの割には、みずから茶会を催すことがあまりなかったので、適当な名品が揃ったら、生前に一度は会心の茶会を催してみたい、ということで、だんだんに器物を集め始めた。

そして、あとは交趾の大亀香合さえ手に入れたら、思い通りの道具仕立てができるからといって、何度もこれを所望したのだが、生島氏がこれに応じることはなかった。

そんなことで、なすすべもなく月日を送るうちに、藤田男爵は大病にかかってしまった。

 生島家蔵器入札の当日は、まさに、男爵の臨終の日だった。男爵は、前々から欲しくてたまらなかった(原文「兼て執心の」)大亀が、いよいよ入札市場に出たので、是非ともこれを買おうとしたが、その入札金額が、生島氏の希望額に達していなかったために、親引(注・入札者に戻ること)になってしまった。

 そこで藤田家のお出入り道具商であった、戸田弥七【露朝】は、藤田男爵の病床に進み出て、その指示を待った。そしてとうとう、示談で、当時のレコード破りの九万円で、売買の相談がまとまったのであった。

 この吉報のたずさえて戸田が男爵の病床に駆けつけたときは、今や、男爵が最期の息を引き取らんとする時だった。耳元で声高に、「大亀を取りましたから、ご安心なされませ」と伝えたところ、その声がよく心根に徹したとみえて、男爵はニコリとして、安らかに瞑目されたという。



現在の価格に直すと、9億円に相当するそうです。(^^;


作品に戻ります。

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型物香合番付表は、幕末時代に作られたものですから、大亀香合へのあこがれは相当のものだったのでしょう。

当時、京焼でありながらいわゆる京焼陶芸家とは別の軸で活躍しておりました保全は、同年代であり、これまた漆工芸では天才肌であった佐野長寛(寛政6年 1794~文久3年 1863)と合作により大亀香合を生み出しました。

それは、交趾ではなく漆の技法であった白檀塗を陶器に施すことで、別格の風合いを表現した・・・写しというより、リ・イマジネーション作品です。

保全と長寛の信頼関係につきましては、先日のブログでの宗三郎が佐野長寛の次男であることからもお分かりいただけることと思います。

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尻尾の方より。

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内側。

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底も丁寧に造りこまれております。


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両人の共箱がございます。

後述致します、箱書により1848年(もしくは1849年)の作品であることが判ります。

それは、永樂保全が善五郎 ⇒ 善一郎 ⇒ 保全(やすたけ)と変遷していく中で、保全を名乗る年であったということから、おそらく”保全”を名乗る転機にその意気込みを込めて作った作品であったと思います。

それは箱書からも推測されます。

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保全が修業を重ねた、大綱和尚による丁寧な箱書が添えられております。


『松風の 萬代齢よわふ(齢)

 友なれや 六越(むつを) かくして

 しづかなる亀

 七十六翁 大綱』



大綱和尚(1772-1860) 江戸時代後期の僧。
安永元年生。臨済宗。京都大徳寺住持。同寺塔頭黄梅院にすむ。歌をよくし,書画にすぐれ,10代千宗左,11代千宗室ら親交。安政7年2月16日死去。89歳。


亀の長寿、不変の松風から大綱と保全、保全と長寛、の末永い親交を現したかのような歌を詠みあげてるように感じます。

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サイズ 幅11cm×8cm 高さ6.5cm

こちらもまた、歴代展にも同手が出品されておりました。

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その他、世界的な香合コレクターで知られる、第1次世界大戦でのヴェルサイユ講和を主導したフランスの元首相であるクレマンソーもこの香合を所有されておりました。

その後、モントリオール美術館に3000点ものコレクションが寄贈され、1978年と2003年に日本での展示会が実現致しました。

そのどちらにもこの蔵六亀香合も展示されております。




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永楽善五郎(即全) 仁清写吹寄 手鉢 [新入荷]

たまには、即全さんの作品もご紹介しましょう。

といっても、なかなか、無い、逸品です。

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形状も、絵付けも、なかなかの出来映えです。

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金彩も上品に施されており、秋の慕情のうらさみしさの中に彩る、色彩の対比を仁清のテイストの中に閉じ込めております。

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手鉢、というのが吹き寄せをまるで集める篭のようにも見えます。

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印です。

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共箱 甲

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共箱 裏


即全作品の中でも、かなり珍しい部類に入るこの手鉢ですが・・・

先刻ご紹介しました宗三郎水指の時に述べました・・・源氏54帖展に似た作品が掲載されておりました。

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案外、秋使いの永樂の菓子鉢というのは秋草 ⇒ 龍田川はあまりないので雲錦くらいしか見当たらず、赤絵、とかになってしまうものです。

内底に、うすい染み、はございますがそう目立つものではございません。

大きさも程よく、主の菓子器にぴったりです。


ちょっと、お勧め作品です。



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永楽善五郎 回全 (西村宗三郎) 御室写水指 [新入荷]

またまた、永樂の珍しい作品のご紹介になります。

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永楽善五郎 回全 (西村宗三郎) 御室写水指


西村宗三郎・・・あまり聞きなじみのないお名前と思いますが、(当ブログではいつぞや、ご紹介致しましたが)それもそのはず。

十三代 回全を授けられたのは没後のことであり、生前も特に名乗っての作品はほとんどございません。

この方、江戸後期の漆の名工、佐野長寛の次男です。

保全と長寛の仲が良かった縁で、永樂家に弘化4年(1847)に養子に迎えられます。

保全が和全に家督を譲ったあとに、”善一郎”家として別家しようと考えたことからの行動ですが、そのことで保全と和全の仲に亀裂が入ることにもなりました。

それとは別に、宗三郎は保全の作陶を良く助け、保全の晩年には宗三郎の作になるものが数多く存在します。

また、和全の方にも大いに力を尽くし、御室窯を一緒に開窯し仁清からの流れを汲む佳品を製作することになります。

作品に戻りましょう。

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この作品も御室焼・・・仁清の意匠を写した水指で、その釉調や口の輪花の感じにその流れが見て取れます。

昔は、和全作品と混同されていたようですが、永樂即全が昭和63年に”源氏物語五十四帖”という即全の集大成というべき逸品展を行う際に、永樂家としては史上初となります”歴代展”も実現することが出来ました。

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その際には、永樂回全(宗三郎)作品として紹介されております。

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”河濱支流”印になります。

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共箱

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共箱 底  

五十の内

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外箱に当代極箱がございます。このまま書付にも出せますね。

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当時の塗蓋も付属します。 また違った顔を見せてくれます。

サイズは輪花の部分で15㎝ 柄杓を入れる口で12.2cm 高さは18.8cm つまみ部分まで含みますと20cmです。

”運び”にも”棚”にも合わせやすい水指です。


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西村宗三郎 明治九年(1876)一月二十九日に四十二歳で没します。

後に、永樂家への大きな貢献度から、十三代 回全として歴代に数えられることとなりました。

幕末から明治の激動期、名工であった保全と和全の性格の異なる親子の元で決して前へ出ることなく控えめながらも確かな実力を備え、残した足跡は・・時代を超えて残り続けることでしょう。


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横井米禽 御深井焼写 瓶掛 [新入荷]

米禽の大作です!

尾張陶磁器の最高峰であります、御深井焼を再現した作品です。

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『御深井焼 蝶模様瓶懸』

御深井釉が綺麗に発色しております。

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サイズは 幅 33.5cm 高さ 23.5cm になります。


裏返してみましょう。

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昭和三 戊辰秋十一月

今上天皇御大禮ヲ 京都ニ行セ給フ 即千其御大典之月之 臣民上下心ヲ一ニシテ 皇運隆盛ヲ
愈々祈ル

於 東雲里

米禽造 (花押)

時干戊辰秋十一月九日



横井米禽は大正期に東雲窯を買取り、自身の数奇の作品を生み出しました。

この作品は底に上記のように丁寧な彫りにて、昭和3年の昭和天皇の御大典の際に特別製作したものであることがうかがえます。

本歌は、御深井焼の有名な瓶懸で、過去の展観でも出品されておりました。

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サイズが大き目ですので、瓶掛としては勿論・・・風炉の代わりや硝子の板を置いてテーブルにも使えそうです。(^^♪


お値段は、びっくり価格です。



横井米禽(べいきん) 1885年~1941年

本業(古美術商)の傍ら作陶にいそしみ、研究・研鑽を重ね、大正13年には東雲焼(窯)を譲り受けて作陶に励んだ。 朝鮮系のものから伊賀などの和物に安南まで幅広く手がけ、なりよりどれも実にお茶に適っているので茶席で取り合わせるに重宝し、現在でも人気が高い。
昭和16年没。56歳。

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